わろてんか|寺ギンは史実では敵でなく味方!キャラが違い過ぎる!

 

 朝ドラ『わろてんか』では、風鳥亭をはじめたてんと藤吉の前に

太夫元の寺ギンが立ちはだかります。

 

寺ギンは元坊主の異色の経歴を持ち、「面白ければ何でもあり」の

オチャラケ派を率いる興行界の風雲児。

 

当初は風鳥亭のような端席を相手にしませんでしたが、対立する伝統派と

組まれることを嫌って太夫元になることを提案。

 

ところが売上の7割を取り分とする暴利で、どこまでも食えない男です。

 

しかも今後は藤吉と寺ギンの関係が悪化して、ドラマの前半戦では激しく

両者が対立することになります。

 

まさにてんや藤吉にとっては強敵となる寺ギンですが、

史実では吉本せいの敵ではなく味方でした。

 

 

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史実では寺ギンは敵でなく味方!キャラが違い過ぎる!

 

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他の記事でも紹介しましたが、寺ギンのモデルは太夫元・浪速落語反対派の

岡田政太郎です。

 

 

本業の風呂屋で成功して興行界に入ってきたことから、

「風呂政」のあだ名で呼ばれていました。

 

当時の興行はあくまでも落語がメインで、漫才やモノマネなどの色物は

あくまでも落語の添え物でした。

 

ところが政太郎は「面白ければ何でもあり」のスタンスを貫いて、

思い切って落語と色物の比率を反対にしてしまいます。

 

反対派の興行には踊りや剣舞、俗曲に手品、曲芸や軽口、女道楽など

様々な演目がズラリ並び、かなり派手で面白かったことから、

たちまち落語を凌ぐほどの人気を得ます。

 

しかも高名な落語家たちより遥かに出演料も低いので、借金をして

寄席をはじめた吉本せいと泰三夫婦も当初から政太郎の反対派と手を組んで

興行をおこなっています。

 

その際の取り分は五分五分で、ドラマのように寺ギンが売上の7割を

持っていくというのはフィクションです。

 

また吉本泰三に寄席をはじめることを勧めたのは政太郎との見解もあり、

そうであるならば政太郎がいなければ吉本夫婦は寄席を開業しておらず、

吉本興業もなかった可能性もあります。

 

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明治45年(1912年)から第二文藝館で興業をはじめた吉本せいと泰三夫婦と

政太郎の関係は良好で、大正9年(1920年)12月に政太郎が53歳で

急逝するまで特に目立った争いなどはありませんでした。

 

ドラマではてんや藤吉と激しく対立することになる寺ギンですが、

史実では吉本せいや泰三夫婦とは終生にわたり盟友関係でした。

 

まぁ~このあたりはドラマを盛り上げるために、大きく修正している点

ですね。

 

政太郎にとっては心外かもしれませんが、ドラマの寺ギンは味方どころか

敵で、しかも多くの悪事を企てることになります。

 

ちなみに政太郎の死後、後を継いだ次男の政雄の器量不足がわかると、

吉本興業部は反対派の乗っ取りに出て、わずか3カ月で所属する芸人たちを

傘下に収めています。

 

これをきっかけに吉本興業部は本格的に太夫元をはじめるのですが、

現在の吉本興業の興行主ではなく芸能プロダクションとしてのルーツは

ここにあります。

 

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